INTERVIEW

大塚会長

町田を「自分の街」と思う一人ひとりが 次の魅力をつくる

2019.06.12

町田市中心市街地活性化協議会 会長 大塚信彰さん
大塚信彰さんは、町田でオーダーカーテンの専門店「カーテンショップ 森の風」を営んで来た経済人でもある。初代は大正9(1920)年に町原田六丁目にて荒物雑貨店を創業。以来代々に渡り町田で商業に従事。信彰さんはこれまで商店会や神輿会、消防団などさまざまなコミュニティの顔役を務め、町田市議会議員や議長も経験し、市民と行政の橋渡し役として長年、町田のまちづくりや市政に貢献している。

東京都の南端にある、人口約43万人の都市「町田」。新宿から小田急線で約30分、横浜と八王子をつなぐJR横浜線も乗り入れ、横浜駅からも約30分と交通利便性は抜群で、1970年代頃から団地が開発されるに伴い、人口も増え続けて来ました。

かつては八王子で生産された生糸を横浜港へと運ぶ街道「絹の道」を中心に商業が栄え、やがてJRの駅が小田急線の駅の近くへ移転したのを機に、町田駅前には百貨店や大型商業施設が次々と開業。ピーク時には商圏人口300万人とも言われるほど、「買い物するなら町田へ」と近隣の市町からも多くの人が集まりました。

その町田が今、再び変化の時を迎えています。

日本全体が成熟期を迎える中、次の時代・世代に選ばれる街にしていくために、町田市でも多くの人々が、積極的に街のアップデートに取り組んでいます。今回のインタビュー特集では、町田のまちづくりに関わる立場の違う三者(行政・商店会・有識者)に、それぞれの視点から、町田への想いや取り組み、これからの未来について語っていただきました。

市民と行政が一緒に町田の未来を考えるための協議会

−大塚さんが会長を務める「町田市中心市街地活性化協議会」の、誕生の背景や活動についてご紹介いただけますか。町田市中心市街地活性化協議会公式サイト

郊外化が進んで衰退が目立つ地方都市の中心市街地をなんとかしなきゃっていうので、平成10年(1998年)に、国が「中心市街地における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律」を制定しました。

市町村が国に中心市街地活性化基本計画を出して認定されると、推進を補助してもらえることもあって、町田市の行政もプランを描いてそれを出そうとしたんだけど、「地元との合意はできているのか?」という点を国から指摘されて、認定を受けられなかったことがあったんです。

その時にも協議会が設けられたんですが、残念ながら実際にはほとんど議論がされていなかった。当時、私はまだ町田市の市議会議員をやっていたのでその流れも見ていて。

平成18年(2006年)に法が改正されて、現在の「中心市街地の活性化に関する法律」になった時に、町田市も改めて新しいまちづくり計画を策定することを決めました。それを受けて、それまでまちづくりの担い手としてやってきた株式会社町田まちづくり公社と町田商工会議所が発起人になって設立したのが「町田市中心市街地活性化協議会」です。町田で商売・事業を営む人や、住民の代表者が連携しながら、行政と一緒になってまちづくりをして行くための組織です。

やっと良い方向に来た、と私は思っていますよ。

とにかく、市民の声を一回聴こう

夢まちプロジェクト

夢まちプロジェクトMAP(詳細PDF資料:画像クリック)

この中心市街地活性化協議会ができた後、2016年7月に行政の地区街づくり課が中心となって、まちづくり計画「“夢”かなうまち」を作りました。その前に、協議会からは会長と副会長が出ていってキャッチボールをして内容を検討し、まちづくり計画ができてからは、それを具体的に実現するために、10個のプロジェクトに対してワークショップを行って、計画の良し悪しや、どうやって進めて行くかを、市民を交えて議論しました。

結局、2番の「個性と魅力あふれる商店街づくり」と6番の「町原田大通りの憩いと賑わい空間を創出する」プロジェクトについて、協議会が中心になって具体的に進めるための方策を考えようということになりました。

ーでは、「“夢”かなうまち」を作るタイミングで大塚さんが協議会の会長になられて、そこで初めて街の人たちも入って来て、行政の計画とのリアルな接点ができたということなんですね。

本来「中心市街地の活性化に関する法律」に基づいたまちづくりの関係者は、鉄道事業者とか他にもたくさんいるんです。でも、協議会の会長の役目を受けた時に、そういうのはちょっと置いといて、とにかく市民や各商店街の担当者にも全部出てもらって、皆さんの話を聞こうじゃないかと言って、組織を作ったんです。

大きな開発計画が具体的に進んで行くと、地権者、行政、鉄道事業者、UR、設計関係など、最終的にはそっちの人達も関係してくるんだけど、まずはそういうことも関係なく、店子さんであるような人達にも全部入ってもらって意見を一回聴こうよって。それはもともと私がずっと思っていたことなんだけどね。

これで本当にいいのか? 行政に問いかけることが役割

ー市民と行政と街づくりのディベロッパー達が同じ場・会合にいるってこと自体が、他の街ではあまり無いことなので、こないだもワークショップに参加させていただいて、すごいことだなと驚きました。

ただ残念ながら、商業地としてはちょっと地盤沈下してるんでね。この組織化した人達も、どっちかって言うともう商売をやってなくて、ビル経営ばっかりになっちゃった。そうするとやっぱり言葉がつながっていかない所は、すごくきついんだけどね。

そうは言いながら、昔からいろいろ考えてたまちづくりが今、現実に出来上がってくるというのは、まさに楽しい。そこまで行政が踏み込んで来て、協議会を本気で活用しようとしている。そういう意味では良い流れだと思うよ。

今、まちづくり計画ができたから、それに対して「これで本当にいいのか? 街としてもっとこういう所に力を入れてほしい」っていうことを、自分達で考えて議論や提言することが協議会の仕事なんです。

町田の未来をつくる次の担い手が大事

大塚会長

ー町田では今、まちづくりに関心を持つ若手の方も徐々に増えてきていますよね。「町田のこれからを担う10人」みたいな、次の世代の人材が出てくると良いですね。

今までの町田を担ってきた私達は、戦後の高度経済成長時代に全国から集められた人達ではなく、まさにインディアン(土着の住民)なんですよね。ところが今、その人達に力が無くなってきて、実は地方から昭和30年代に東京に労働力として集められた人達の、次の代の子達が「町田は自分たちの街」って思ってくれているんです。その子達をいちばん先頭に出せるような街になったら、きっと素敵なんだろうなって。

今、私がいちばん大事にしているのは、そういう子達。話していても面白いしね。そういう子達の方が、私が20代の頃にやってたこととイコールなんだよね。

私の先代っていうのは、二次卸をやってたんです。簡単に言うと、東名高速道路も新幹線もない時に商売してたわけ。だから二次卸ができたんだよね。そこからインテリアに業態を切り替えたのは、私が企画してやったんです。議員をやる前にね。それがちょうど20代から38才頃まで。それは例えばコンビニがこうやって台頭することも全部考えながら、おそらく荒物雑貨の二次卸の業界は無くなるだろうなぁと思っていたら案の定、間違いなかった。

やはりそういう感覚が必要です。次のまちづくりは、少なくとも戦後の高度経済成長時代の積み重ね・繰り返しをやっているようなやり方ではダメだろうと思っています。新たなビジネスモデルを作らないと。だから若い子で「あれっ?」と思うのは、行政に寄りかかっちゃう奴。自分の商売をなんとかするために寄りかかってくる。それじゃあダメだろうなぁと。

商店街も、役所任せで「頼むからなんとかもっと有効活用できるようにしてくれよ」って、そんなことじゃ街は活性化しないよね。そういう知恵を地域の人達も一緒になって出そうよ。それを吸収していく行政の仕組みがあれば良いんじゃないかと思いますね。

市民一人ひとりがまちづくりに能動的に関わる仕掛けを

よく言うほら、「若者、馬鹿者、よそ者」っていうのが必要だって。私はどっちかって言うとその「馬鹿者」でいいんだよね。で、「よそ者」っていうのは、YADOKARIさんなんかが実はそうだよね。他所から来て、この街に関わろうと言ってくれる。それから「若者」が必要。全国いろんな街へ視察に行ったけど、湯布院で旅館やってる中谷健太郎さんは、実は町田の「23万人の個展」に参加してるんだよ。それが母体で湯布院のまちづくりをやったんだよね。

*「みんなの祭り・23万人の個展」:昭和48年(1973年)9月23日に開催された、町田初の市民祭。市民どうしの交流と、一人ひとりが祭りの担い手に、というコンセプトから名付けられ、子どもから大人まで積極的に出店し賑わいを見せた。

私がちょうど21才の時。なんだか分からないけど人口がどんどん増えていってさ、町田の旧住民じゃなくて、新しい人達が参画できる街と言うことで、すごくエネルギーがあった。そこへいろんな趣味を持っている人達がどんどん出て来て、まさに市民主導の市民祭だった。私は大好きだったんです、これ。

ー祭りの意義って、会長からするといかがですか? やはりこういうことが起点で、若者も街に携わるようになってくるんでしょうか。

入り口のきっかけにはなるよね。問題は、その仕掛けを作った連中が、大事なことと大事じゃないことを、きちっとわきまえていなきゃいけない。関わった人達を利用すればいいと思っていると、まさにその人達は利用されるだけで、いわゆる労働力でしかない。その人達の考えていることを、祭りの企画に関する部分には参加させない。それがまた伝統的な祭りでもあるんだよね。だから、祭りにそういう若者達をどうやって能動的に参画してもらうかという仕掛けが大事。

ーそういう伝統的な日本の祭り文化がある中で、この「みんなの祭り」って名付けるっていうのはすごいですね。

この時、私は若手で深いこと考えちゃいなかったけど、でもやっていて「ああ良い祭りだな」とつくづく思ったんです。やはり全国から視察や参画する人達がどんどん来ていた、当時としては非常に先駆的な祭りだったんだよね。

都心にはない町田ならではの魅力とは?

© Urban Renaissance Agency(UR都市機構)

ー最後に、中心市街地に限定せず、町田市全体に対して思うことがあればお話しいただけますか。地形的にも特徴的で、南町田の大規模な開発も始まり、もちろん東急沿線のベッドタウンとしても賑わいを見せると思いますが、とは言えこれから人口も少しずつ減り、商店街の賑わいも変わってくる中で、「町田」という街に対して、ぜひメッセージをいただきたいなと。

山崎団地、あれがまさに戦後の象徴なんですよね。そのリニューアルというか、新たな若い人たちが住めるような方策をどう作れるかは、非常に大事なような気がします。

一方で多摩都市モノレールの延伸の話がほぼ決まってきたから、あと13年後には駅ができる。それは極めて重要で、そのことによって放射線状の鉄道に対して、モノレールが横につないで、1kmに1つずつ駅ができて住みやすくなる。仕事の仕方も、今は都心に行かなくてもできるようなスタイルが出てきてるじゃない。そうするとまさに1km圏で、例えば山崎団地から中心市街地まで出てくればほぼ完結できる。そういう時代になってくると思うんだよ。

そうすると、都心部とは少し違った「地域」みたいなね、地域経済、地域の人達の輪、コミュニティ…そんなものがきちっとできたら良いなと思います。

小野路に唐木田線の駅が一つ出来る予定ですが、町田は通過駅になっちゃう。だったら思い切って藁葺き屋根の駅舎を作って、都心から来た人に週末だけは足袋履いて歩くような街を作ったら面白くないかなって。そこに週末だけ住むとかね、コテージみたいなのがあって。そうすると仮に近くの駅で大規模な開発が起こっても、違う魅力が残るよね。そう遠くない所に故郷を感じられる街がある。もしかしたら町田はそこがいちばん良いかもしれない。

街に「関わる人」の魅力が、街の魅力をつくる

まほろ座

ー東京都心にも近いですし、いわゆる音楽や映画や演劇など、そういう文化・カルチャーみたいなものは都心へ行こうと思えば行けちゃう所があって、かつ都心からそんなに離れていないのに自然も感じられるという、そこも町田の魅力としてはありますね。

メジャーな文化はね。ただ逆に言うと、マイナーなものは、ここに独立した文化圏があって良いんじゃないかって。自然もまさに文化の一つとして設えてくれれば、面白いんじゃないかと。

最近大好きなのが「まほろ座」って知ってる?あそこが良いんだよ。あの子達、一生懸命やってる。あんなに想いがあって、あんな作り込みが出来るものが原町田の中にポツンポツンとあると、大型商業施設も大事なんだけど、次の魅力を作っていくファクターになる。

大塚会長

肝はやっぱり「関わっている人がいる」ということが、すごく大事だと思います。街に関わっている「人」の個人的な魅力の集まりが、街の魅力だと思うんです。駅前開発もやるだろうけど、それだけじゃなくて、街に関わっている人達のカルチャーや文化が、やっぱり街にあった方がいい。それが逆に言うと郊外型のショッピングセンターには無い、まさに「既存の街の魅力」なんだよね。それなんじゃないかな、「自分の街は、自分のもの」というか。

「自分の街の未来を、自分で描いていくんだ」という当事者意識を持つ人がどれだけいるかで、これからの街の魅力は変わって行くように思います。町田には今、そういう動きが始まる予感が感じられます。それはおそらく、大塚会長をはじめ、街の担い手の先輩達が、それを言い続けてきたからではないでしょうか。時代や世代、立場を超えて、さまざまな町田の人が同じような未来のビジョンでつながっていることを強く感じられたインタビューでした。

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